私は会が始まる数分前の、落ち着かない会場の雰囲気が好きです。
これからの数時間の場を共にする生徒さんは、それぞれ、まったく違った目的をもち、まったく違った意識で集まっておられます。未知の出会いに目を輝かせておられる人、ただ緊張のあまりに息を詰めて固まっている人、断わりきれずに参加した自分の優柔不断さに腹を立てながらうつむいている人・・・。
その間を準備にかけまわっている指導者の、また個性的な動きも多様。生徒さん以上に緊張して右往左往している人、子供に接する保母さんのようにニコニコ声をかけている人、テキパキと打合せ通りに完璧にこなすことに集中している人・・・。
司会が「おはようございます!」と開始を宣言する前の数分間、会場は参加者の内部事情がありのままに美しく波打っています。
じつは「昇段審査」をするのも、実践会そのものを開くのも、そんな個々に違う内部の現実をはっきりとさせることが目的なのです。その機会無くして(ふだんの和やかな教室だけでは)、生徒さんのヨガに対する目的や意識がわかりません。
「審査されるなんて絶対イヤだ」 という生徒さんがおいでです。なぜ?
「審査にうかって指導者になりたい」 生徒さんもおいででしょう。ほんとうに?
「はーい」 と、なにも考えずに審査を受ける人もあるでしょう。それから?
実践会〜昇段審査というテーマに、どんな反応をし、行動し、結果がでるか、それを個々に見つめることにこの会の意図があります。それは漠然とした日常意識、習慣化したマンネリズムに、ふだん隠されている“現実”を突きつけること。
この“現実”を怖れて目をそむける生徒さんは、決して指導者になることはないでしょう。また、この怖れる生徒さんをときには厳しく突き放すことのできない指導者は、決してほんとうの指導者になれないでしょう。
自治体などが開催する “市民だれでも参加型ボランティア活動風仲良しサークル” では優劣をつけることを避けるものです。そしてその雰囲気のクラスからは指導者が育ちにくいものです。先生と生徒が友だち感覚。それは、戦後の教育を受けた親や教師が、子供の “自主性” と “人権” を最優先にして、ものわかりの良いオトナを演じているうちに、すっかりコドモにナメラレテしまった学校や家庭と似ているような気がしませんか。
強制からは喜びは生まれませんから、ご参加も強制はしないでください。自分自身の身体と心の内面的“現実”を直視する機会が大切なのだということを、理解していただく努力を続けてください。それにはまず先生ご自身が、目の前のあらゆる機会に淡々と自分の姿を示されることが求められます。
『厳粛さの持つ深い内的な単純素朴さから、二重性を持たない生が現れる。』
「国際ヨガフェスティバル」に、多くの生徒さんが内的"現実"を見つめるために参加されることを期待しています。どうぞ厳しくシンプルに、導いてください。
PULSE
2001.7.
「ヨガアサナ実践会」〜開会前の美しさ
J.クリシュナムルティ